佐藤光展の「精神医療ルネッサンス」笠陽一郎さんの「波乱万丈の精神科医人生」/窮地の1万人を助けた精神科セカンドオピニオン(2021年9月の記事再掲載)

愛媛県松山市に住む精神科医の笠陽一郎さんと初めて会ったのは、もう13年も前(2021年時点)のことになります。当時、私が働いていた読売新聞東京本社の医療部に届いた笠さんの本「精神科セカンドオピニオン─正しい診断と処方を求めて─」(シーニュ)を何気なく手に取ったことが、出会いのきっかけでした。幸か不幸か、私はその日を境に精神医療の底なし沼に引きずり込まれてしまったのです。

患者や家族の体験談を中心としたその本の感想を一言で表現すると、「ウソだろ」でした。何でもかんでも統合失調症にしてしまう誤診の嵐、子どもに対しても「死ね」と言わんばかりの大量投薬、嘘八百を重ねてミスを認めない精神科医たち……。そのおぞましい内容に圧倒されて、「フィクションではないか」と思ってしまったのです。

私は高校生の頃、大熊一夫さんの「ルポ 精神病棟」(朝日新聞出版)を読んで衝撃を受けました。そして、こんなひどいことを平然とやる奴らを告発する仕事がしたい、と考えるようになりました。それと同時に、「今はここまでひどいことはないだろう」「こんな滅茶苦茶な時代に新聞記者をやれた大熊さんがうらやましい」とも思ったのでした。「昔より今は良くなっているはずだ」という根拠のない幻想に、以前のおめでたい私は囚われていたのです。

本を手に松山に飛び、当時は味酒心療内科にいた笠さんと対面しました。開口一番、笠さんは言いました。「佐藤さんはきっと、この本の内容はウソだと思っているのでしょう」。さすが精神科医、図星です。

「ここに登場する人たちをいくらでも紹介しますから、直接会って話を聞き、カルテでもなんでも見て判断してください」

時間をかけて各地を回り、本人や家族、医療機関などの取材を続けました。そして「間違いない。事実だ」と確信した私は、朝刊連載「医療ルネサンス」で2008年暮れに特集を組み、これが大反響を集めました。このあたりの話は、「精神医療ダークサイド」(講談社現代新書)などに詳しくまとめてあります。

この当時、笠さんは精神科診療に関する無料相談電話を開設し、クリニックでの診療後、鳴りやまぬガラケーを手に対応していました。中でも特に深刻だったのが、子どもについての相談です。東京都府中市にあった都立梅が丘病院(現在は閉院)などでは、単なる不登校の子どもたちが次々と薬漬けになっていました。子どもの状態は悪くなるばかりで、不信感を募らせた親たちが子どもを連れて、松山にやって来ることがよくありました。そして笠さんのアドバイスで減薬や薬の置き換えを行い、環境調整なども行って、ピンチを脱していきました。こうした子どもたちが、もし薬漬け医療機関にかかり続けていたら、今ごろは医原病による「精神障害者」になっていたかもしれません。

「この当時に関わった子どもたちの中には、その後、医療職を選んだ人が多くいます。医師になった人も、看護師になった人もいますよ」と、笠さんは嬉しそうに語ります。

「僕も、2000年代の前半にセカンドオピニオンを始めた頃は、従来の精神医療の考え方から抜け出せていませんでした。自分の診療に自信満々で、『薬の適切な使い方を教えてあげよう』くらいに思っていたんです。でもセカンドオピニオンを続けるうちに、自分が学んできた精神医療の考え方が間違っていることや、とんでもないことが日本各地で起こっていることに気づかされました。そして、勉強熱心な患者さんやご家族から多くを学ばせてもらったんです」

笠さんが無料相談電話で対応した患者・家族は計1万人を超えました。精神医療の闇はそれほど深刻なのです。

今年(2021年)7月、笠さんと5年ぶりに再会しました。一時期、持病の悪化で診察もできないことがあったのですが、今春には74歳にしてブログを再開し、5年前よりも元気になったように見えました。

笠さんの魅力は、多発する誤診の告発や、「発達障害の2次障害」などの考え方を広めた精神科セカンドオピニオンの活動だけではありません。実に魅力的でドラマチックな精神科医人生なのです。今回改めて、昔の話をじっくり聞くことができましたので、紹介していきます。

患者や家族からもらった大好きなクジラグッズが溢れる診察室で、相談の電話を受ける笠陽一郎さん(松山市のしいのき心療内科 2021年7月22日)

電気ショックの雨あられ/患者を「ぼかして」競輪に行く看護長

笠陽一郎さんは、卒業した神戸大学医学部の附属病院と、民間精神科病院で約2年間の経験を積み、松山に戻りました。そして愛する故郷で、人権の欠片もない精神科病院を変えるための様々なチャレンジを始めたのです。

ですが、その話を始める前に、1970年代前半を過ごした神戸時代を少し振り返っておきましょう。笠さんがミニコミ誌「えどがわ・はつ」に寄稿し、日本社会臨床学会の社会臨床雑誌(2000年4月発行、第8巻第1号)に転載された「僕の見た精神医療」から、印象的な記述をいくつか抜き出していきます(文中の個人名や病院名はアルファベットに変更しています)。

「学生時代は、いくら神戸大といえども、封鎖とデモと集会に明け暮れていて、否応無く、いつもその渦中にいた。そして、人並みに悩み、徹夜で議論をしたり、本を読みあさったりもしたのだが、結局心は覚めていた。覚めた心のまま、何も知らなくてもやれそうなところ、そして誰も行きたがらぬところ、つまり精神科に進んだ」

「病棟では、マラリア発熱療法や、インスリンショック療法、電気ショック療法などを、当たり前のようにやっていた。教授回診のあとを、ぞろぞろついて歩き、一人の入院患者を取り囲んで、ああでもないこうでもないと、カンファレンスをやっていた。違和感があった。それ以上に、精神医学そのものに、全然興味が無く、覚めたままだった」

マラリア発熱療法は、精神症状も引き起こす神経梅毒の治療法として20世紀初めに考案されました。患者をわざとマラリアに感染させ、発熱によって神経梅毒を改善させようとする危険な方法です。改善した患者もいたようですが、マラリアが原因で死亡する患者もいて、1928年に発見された抗生物質ペニシリンの普及とともに、臨床の場から消えました。

またインスリンショック療法は、精神分裂病(現在の統合失調症)の治療法として20世紀前半に提唱されました。空腹時にインスリンの皮下注射をして、強制的に低血糖状態を作り出し、それによるショックや昏睡で症状が改善すると考えた治療法でした。これも重大な医療事故につながる恐れがあるため、1950年代の抗精神病薬の登場と共に廃れていきました。

どちらの治療も、今では精神医療の黒歴史といえるものです。そんな方法がなぜ、1970年代にも行われたのでしょうか。笠さんに確認してみました。

「よく言えば研究心、悪く言えば実験材料とか、指導の為だったのではないでしょうか。当時の上司の意図は不明ですね。断眠治療というのもあって、患者さんに徹夜を強いて、血液検査を2時間ごとにやったりしました」

まさに狂った世界です。精神医療の現場では、MAD扱いされる患者よりも、医師や看護師の方がMADだという逆転現象は、今もあちこちでみられます。

笠さんは、神戸市内の民間精神科病院にも勤務しました。その1つがS病院です。

「S病院は、院長が神戸大教授のKとベタベタしており、当時の講師や助手が、代わる代わる出入りしていた。作業療法という使役のもと、広大な敷地の一角に、入院患者たちを使って池を掘り、ゴルフの打ちっぱなし場が作られていた。池は確か2つあった。そのまわりには沢山の木が林のように植えられていた。ロボトミーをされた者、優生手術をされた者、Kの研究のため集められた小児(元小児)等が、たくさん徘徊していた。何人もの人が死んだ」

「自分たちが掘った池に、真冬に入った人が、何人かいた。小雪の降る朝、池の端には、靴が揃えられ、衣服も脱いで、きちんと畳まれていた。警察のアクアラング隊が、焚火でぬくもりながら、捜索をしているのを、暖かい医局の窓から眺めていたこともあった。林の木で、首を吊る人も多かった。グランドの北に立っていたシキミの樹が、葬式の多さに、枝を切られすぎて、枯れかかったこともあった。いつも死人の始末をする数人の職員がいた。彼らは、時に入院患者にもなり、また時に職員でもあった。逃げようとする人や、暴れる人を押さえるのも彼らの役目だった」

このようなホラー映画のような病院にも、淡々と適応していける医師たちがいます。そういう類が大学に残り、出世していくのかもしれません。しかし、笠さんにはできませんでした。人の痛みが分かる普通の人間だったからです。

「大学とその周辺の精神病院は、底の深い闇だった。何も分からず、また分かろうともせず、たった2年で疲れてしまって、故郷に帰ることになった。あまりに無知で、あまりに無関心で、情け無い逃亡だったと、ようやく今にして思う」

ところが、松山の精神科病院(М病院)に移った笠さんを待ち受けていたのは、神戸を上回る惨状でした。以下、再びインタビューに戻ります。

「Ḿ病院は当時、870床、12病棟ありましたが、医者は5人だけでした。医者5人で870人を診るなんて、そもそも不可能なのです。そこでは看護長が実権を握り、注射の指示とか電気ショックの指示なども出していました。医者は後から『何々を打ちましたよ』とか、『電気ショックを指示しました』とか聞かされて、サインするだけでした」

「各病棟には電気の当番というのがあって、曜日ごとに担当を決めて、870人のうちの70人から80人くらいに電気ショックをかけて回りました。当時の電気ショックは麻酔もかけず、額の横に電極をあてて強烈な電気を流していました。自分の担当患者ではない人に電気をかけることもあり、『この人、何回目なの。もうやめたほうがいいんじゃないの』って聞いても、看護長や主任は『やめちゃダメですよ』と言うばかり。むちゃくちゃですよ。電気ショックの装置は病棟ごとに置いてあって、患者さんがずらりと並びます。ベッドの所に来たら電気をかけて、目が覚めたら部屋に返して、という流れ作業です」

目の前にいる患者が、麻酔もなしに電気ショックをかけられて、激しく痙攣しながら失神する。そんな姿を見れば、怖くて逃げ出す人も多くいたのではないでしょうか。

「もうそんなレベルではないのですよ。数十回かけられている人が多いから、みんなボーっとしちゃっていて、感情も失っていました。そういう人たちに、さらに電気をかけるのです。誰かが止めなければ、50回や100回になります。看護長が昼間に競輪に行くために電気をかけるのです。電気をかけておけば、放っておいても大丈夫ですから。それが精神病院の当たり前の姿でした」

「僕は病院に昭和49年(1974年)4月から勤めたのですが、この年の3月に、その病院で最後のロボトミー手術が行われました。病院は大変多くのロボトミー手術を行っていたのです。様々な批判を受けて、ロボトミーができなくなった直後に僕は入っているので、直接は見ていないのですが、ロボトミーを受けた人はたくさんいましたね。それで、ロボトミーを受けた人にも電気をかけるのです。脳がうまく切れていないとか、浅すぎたとかで、ぼかしそこなった人がいたのでね」

「電気ショックの作業も、看護長が中心的にやっていましたね。当て方が浅いと皮膚が焦げるので、きちんと当てないといけない。きちんと当てるためには力がいるんです。腕が疲れてきっちり当て損なうと真っ黒こげになってしまって、その後、できなくなるのですよ。だいたい電気は週1回、多い人だと週3回。神戸の病院にいた時は、朝と晩の2回やられている患者さんもいました」

このような電気ショック乱発のせいで、死んでしまう人もいたようです。

「実際、死亡例を目撃したことがあります。担当者が忙しいとかいうことで、本当は午後3時とか4時にやるところを、1時に回したんですよ。食事を終えた直後です。そしたら、ワーッと吐いて誤嚥して、それで死んでしまいました。それから、熱が出てる人には絶対タブーなのに、かけて意識が戻らなかったとかね。この2例は、明確な例としてありましたね。記録では、一番多い人で百数十回かけられている人がいました。繰り返しの電気でぼかし過ぎて動けなくなっちゃうと、またそれはそれで手がかかるから、動ける範囲で静かになってもらわないといけない。そこを見極めるのが我々の仕事だと、偉そうに言った医者もいました」

笠さんは、こんな惨状を放置できませんでした。自分の知らない患者にまで、医師が本当に指示したのかも分からないまま、電気をかけ続けなければならないのですから。そこで考えたのが、5人の医師たちの担当病棟を決めることでした。医師1人あたり200人近い患者を抱えることになりますが、自分が受け持つ病棟の患者たちは、少なくとも電気ショックなどから守ることができる。そう考えて行動に移したのです。

「とにかく根回しして、病棟主治医制にして、各病棟に担当医を一人決めてやろうとしました。根回しは全部済んで、職員全員が出席する病院会議を開いて、僕が提案して挙手の場面になりました」

しかし、敵は甘くありませんでした。

「全く誰も、ひとりも手を上げなかったのです。はしごを外されたのです。向こうも根回ししていたんですね。そんなことをしたら、医師が忙しくてたまらないだろうと。だから手を挙げるなよっていうのが、回っていたようです。これからも各病棟で勝手にやってくれよ、ということです。完全な敗北です。病院は、腕力に自信のある職員が目立ち、その多くが親戚関係にありました。要するに、土地のものが全部いる。私は松山生まれなのに、よそ者扱いなのです。すごい世界だったですね」

そして、笠さんを追い出すための企てが始まりましたといっても複雑な仕掛けではなく、極めて幼稚な嫌がらせでした。

「ある朝、病院に行ったら机と椅子がなかったんです。診ていた患者さんたちは全員、一夜にして他のドクターに回されていました。病院は『辞めろ』とは言いませんでした。でも、患者さんに関われないのならば、居ても意味がないですからね」

笠さんは、松山市内の別の精神科病院(H病院)に移りました。そこで、今までの鬱憤を晴らすかのように、大改革を進めていったのです。

(2021年7月22日)

「今夜は眠剤なしで無礼講じゃあ!」/入院患者総動員で鉄格子破壊/患者がカルテを記入してオープンダイアローグ

2年半いたМ病院を離れ、知り合いの紹介でH病院に移った笠陽一郎さん。約200床ほどのH病院の印象を、こう振り返ります。

「驚くことに医者が院長しかいなくて、ほとんどのことを看護が仕切っていました。患者さんの自由は全くなかった。それでも、神戸で見たどの病院や、М病院よりも、まだマシでした。明らかに病気でない人まで入れられていることはなかったし、看護者によるリンチもなかったし、変死もなかったからです」

「院長は温厚な人格者で、何を考えていたのかわからんような人物でした。それで、男子病棟、女子病棟、老人病棟とある中で、男子病棟はやりたいようにさせてもらう、という一文を院長に取り付けました。そして保護室にずっと寝泊まりして、全ての慣行を洗い直しました。そうこうするうちに、若い看護の中から同調者が出始め、患者さんたちの本音もたくさん聞こえてくるようになりました。ある夜、『詰所の格子や扉は要らんぞな』という声が上がり、『それでは壊してしまえ!』となったのです」

「早速、大工道具一式を持ち出して、あっという間に詰所を解体してしまいました。続いて、入院患者さんたちを動員して、『今夜は眠剤無しで無礼講じゃあ!』と、病棟の鉄格子を夜通し切りまくりました。患者さんの中には、大工やペンキ屋や建具職人もいたから、仕事はすばらしく迅速でした。朝、出勤してきた職員が、一夜でのあまりの変わりように口を開けたまま動けないこともありました。そうやって、あちこちの鉄格子を全て取り去り、詰所を誰でも自由に入れるサロンに変えるのに、1か月とかかりませんでした」

「金銭の自主管理、たばことライターの自由、外出の自由、毎日風呂に入る自由、おしめの洗濯や風呂洗いや院内の清掃は職員がやること。こんな当たり前のことも、ひとつひとつ勝ち取っていきました。更に、白衣を廃止し、電気ショックを廃止し、作業療法と言う名のタダ働きを廃止しました。やがて家族会ができ、患者自治会ができ、院内喫茶が彼らによって運営されるようになりました」

笠さんの破天荒な改革で、H病院は大変な注目を集めるようになりました。外来を含む患者は増える一方で、改革の追い風となりました。

「医者から看護まで、全員が白衣を着ないことを進めた時には、抵抗がありました。看護の人たちは、自分たちのアイデンティティは白衣だと、そんなことを言っていましたね。でも、医療側とむこう側の垣根をどう取るか、ということを考えたんです。そして詰所も鉄格子も全部なくして、デイルームでオープンに申し送りをするようになって、患者さんたちは自分のことがどう話されるのか、一生懸命聞くようになりました。看護者の観察や評価に対して、異論や反論が飛び出して、そこがにわかミーティングの場になっていった。そして、いっそのこと全員で毎朝ミーティングをやろうということになりました」

「カルテもオープンな場所に並べて、自分のカルテを自由に読み、書いていいことにしました。ついには、僕や看護の分も作って、同じ所に並べました。患者さんたちが、職員の性格や『病状』をカルテに記載していくのです。カルテというのは本来、医者が記入した後は誰も見ないんですね。それをオープンにすることで、医者も看護も患者も、書いたことに責任を持つようになりました。もちろん、落書きのような批判や悪口もありましたが、互いの理解につながることの方が多かったです」

「カルテに患者が書き込むことは、いけないことではありません。医者の記録さえどこかにあれば、その間の行間を誰がどう書こうが問題ありません。当時は、治療共同体というのを千葉の海上寮療養所と、広島の西城病院と、群馬の三枚橋病院の3つが競っていました。それを見学しに行ったりして、いいとこ取りしました。そうした病院でもヒエラルキーをなくそうという動きはあったのですが、実際は行動していないのでね。だから、それをうちでしようと」

「全員ミーティングでは、司会を患者自治会がやりました。三枚橋では医者が司会をやっていて、それはおかしいと思った。とにかく患者が全体を仕切って、みんなが対等に議論する形にしました。それが機能している時は面白かった。誰かの退院が近づくと、『巡回の時はおとなしいですが、今も独り言が多いですよ』なんて告げ口が始まるんです。そういう意見が飛び交うのですが、全部オープンにやったのです。それによる揉め事もありましたが、オープンにすることでうまくいきました」

入院患者を対象としたこの取り組みは、笠陽一郎式『開かれた対話』(オープンダイアローグ)と名付けたくなるほど画期的なものです。個人情報保護にうるさい現在では、再現は困難と思われますが、病院内のヒエラルキーを取り払い、患者の言葉や意思を多くの人が共有、尊重するという意味でも、フィンランドのオープンダイアローグとの共通点を感じます。

「その頃はやることなすこと面白くてね。色々なアクシデントもあったけれど、家に帰る気がしなくて、ずっと保護室に泊まっていました」

しかし、急激な改革に対する古株の抵抗は強まっていきました。

若い看護はノリに乗ったけれど、古い看護の人たちは、自分たちは世話する側で向こう側は世話される側、という力関係を維持したくてたまらないわけです。入院患者の中には、意見を声高に主張する人間もどんどん出てきた。普通にフリーでディスカッションし始めると、入院患者は元教師とか大学生とかインテリもいるわけですよ。当時の看護の連中は議論で勝てないので、そんなのやりにくいよね。彼らは上からマウントしてないと、仕事がやりにくかったと思う。相手にする患者さんの多くは人生の先輩なわけだから、向こうから教えてもらって学べばいいという発想があったんだけど、やっぱりそういう発想を看護は持っていなかったですね」

鉄格子を取り払い、外出の自由や退院促進を進めたことによる弊害も生じてきました。入院患者が自殺してしまったのです。

「Aさんは、病院改革によって20年ぶりに外に出ることができました。ところが信号の意味がわからなくて、すぐ近くの店に行きたいのに道を渡れず、戻って来てしまった。『自分はえらい浦島太郎になってしまった』『もう世の中には戻れない』と落ち込み、間もなく、鉄格子を取り去った病棟の窓から飛び降りて、亡くなってしまったのです。他にも2人が自殺してしまいました。もっと気を配っていたらと悔やんでいます。今も思い出すとつらいです。死なれるのは一番つらい」

「このままずっと病院にいられると思ったのに、周りがどんどん退院し始めて焦ったのだと思います。病院を安住の地だと思っている人もいたのです。施設病ですよ。当時の僕は、社会復帰することが治療だと思っていた。社会に復帰して、仕事をすることが治療だと。だからみんなの仕事の世話をしたり、近所の人に頼んだりして、どんどん退院させていこうとした。それでみんなが喜んでくれると、単純に思っていたのです。当時は社会復帰が輝かしいものと謳われていて、僕も洗脳されていた。ところが、そう簡単に言ってもらっては困る人もいたのです。患者さんの側からみたら、急な手のひら返しでしょ。急に外に出ろ、出ろ、と言われて困るわけですよ。そのつらさが、当時の僕は分かっていなかった」

「自殺した患者さんの葬式の帰り、樵悴して病棟に戻った途端、患者自治会の7~8名に囲まれ、病室に連れて行かれました。『看護は動揺しとるぜ』『それ見たことかと言いよる奴も居る』『もう後退はできん』『扉閉めたら、わしら怒るぜ』。40代、50代の自治会役員にとって、30歳そこそこのヒヨコ医者は、さぞかし頼りなかったことでしょう。しかし、開放化をすすめようという熱気が、当時の患者自治会には溢れていました」

H病院で生まれた患者自治会は、1980年に「『精神病』者グループごかい」へと発展し、小規模作業所運営や「働かない権利」の訴えなどを行っていきます。また、H病院の職員の間では、組合結成に向けた動きが始まりました。

「組合の結成はうまくいくかに見えました。ところが看護の人たちが、最後の最後になって医者抜きの組合にしようと動いたのです。僕だけではなく、ケースワーカーと心理も、大卒だからという理由で弾かれました。『看護と看護助手と厨房で組合をやる。あなた方は経営側だ』と言われたのです。こちらは全く意識していなかったのに、彼らは強い学歴コンプレックスを抱いていたのでしょう」

こうして笠さんは、H病院でも居場所を失っていきました。

「院長は僕のやることに呆れていました。でも、『出ていけ』というタイプではなかった。人望のある院長だったから、みんなの意見も聞いてあげて、僕のやることも認めなくちゃならない。結構我慢して、太っ腹な人ではありましたよ。改革が評判を呼んで経営的には潤っていたので、僕が面の皮が厚くて平気でいればよかったんですけど、古い看護連中からの突き上げがあってね」

笠さんは結局、H病院を4年ほどで辞めることになりました。そして始めたのが、たこ焼き屋でした

笠陽一郎さんと「精神病者グループごかい」のメンバー。『わしらの街じゃあ!―「精神病」者が立ちあがりはじめた』 (社会評論社、1984年発売)より。

病院を追われてたこ焼き屋に/診療復帰後、誤診・誤投薬まみれの闇に気づき奮闘開始

画期的な改革を進めた末に、病院を追われることになった笠さんは、なぜ流しのたこ焼き屋を始めたのでしょうか。1978年、当時31歳。精神科医からたこ焼き屋への転身は話のネタとしても抜群で、理由が知りたくなります。

「どこも僕を使ってくれなかったからですよ。『めんどいやつ』という風評が流れたようで。流しのたこ焼き屋だったら、自分が診てきた人の家を全部まわれるでしょ。患者さんのフォローをしていけるし、ずっと付き合っていけるのでね。ホンダのバンを中古で買って真っ赤に塗り、病院を一緒に辞めたPSWの谷本君(現在はNPО法人どんまい理事長)と、すぐに始めました。店の名は地元のスーパー、ハトマートを真似てタコマートにしました」

さすが、転んでもただでは起きない笠陽一郎。しかし、クリニック開業の道はなかったのでしょうか。

「開業は、法律的には医師会の許可は必要ないのですが、田舎では事実上、医師会がノーと言ったら絶対だめですね。診療の連携から何から、いろんなことを締め上げてくるので。例えば、自分が診ている人が急におなかが痛いといっても、他の医療機関がすぐに診てくれないとか。当時は実際にあったんですよ、そういうことが。田舎はそれが通りますからね」

どこの世界にも、陰湿な連中がいます。ところで、たこ焼きの作り方はどこで習ったのでしょうか。

「師匠は患者さんです。『たこ焼きけいちゃん』といって、松山ではなかなか有名でした。たこ焼きなどの粉ものは、混ぜ方がポイントなんですよ。でも僕はうまくできなくて、焼くのも主に谷本君がやっていましたね。僕はもっぱら、口上と〝問診〟でした」

「流しは気楽そうにみえますが、難しいのですよ。道で止まって売り始めると、『ここはだれだれのシマだから、そこの親分さんにきちんと話を通したのか』と、当然来るわけです。了解を得られたら、どこどこのシマでやってもよいとかね。場所を割り振られるんですよ。それを破ったって法律上は自由だけど、後でひどい目にあわされますよね」

「僕の患者さんには組長もいたので、そういう人を通して、こことここはかまわないよって。他の場所は止まったらいかんのですよ。流していたらいいんです。止まって売る時は、彼らの許可がいる。保健所は、必要なものを揃えたら認可が下りるんです。食品なんとか法とか、そんなに難しくないです。でも、保健所の人までが当時は『どこそこの組長さんに話を通しておいたほうがいいですよ。あとでややこしくなるから』って言っていたんですよ」

「一番売れたのが、M病院の運動場前です。自前で作ったタコマートの曲を流して、僕がマイクで『みんな出てこいよーっ』て言うと、『笠先生!』と言いながらみんな出てきてね。焼く間もないくらい売れましたよ。主に精神病院を中心に回っていました。どこに行っても自分の知り合いがいるからね。僕と谷本君のひと月の分け前は、それぞれ30万円近くになりましたよ」

「精神病院の前は、さすがにどこのシマでもなかったですね。『あんな怖い所、わしらはよう行かん』といってね。流しの場合、売る場所が10か所くらいいるんだけど、松山の精神病院は5つか6つしかなかったから、それ以外で売る場所を探すのに苦労しました。でも、なんだかんだでみんな協力してくれて、自分の家の庭とか、場所をかしてくれました。いつも助けてくれるのは患者さんです」

大人気のタコマート。しかし、その伝説の営業期間は半年ほどに過ぎませんでした。精神科医として働ける職場が見つかったからです。後に「精神科セカンドオピニオン」の舞台ともなる味酒心療内科(当時は味酒内科神経科)です。

「M精神病院で一緒に働いた看護者が口利きをしてくれて、高齢の院長の後釜として有床診療所に拾われたのです。それから35年、そこで働き続けました」

H病院の患者自治会メンバーらが中心となった「精神病」者グループごかいも、1980年5月に味酒心療内科で誕生しました。診療所の5階に集まる互会だから、ごかい。世間から「誤解」を受け続ける人々の会、という意味もあったのかもしれません。

81年秋には、精神疾患ではないのにM病院の隔離室に20年近くも閉じ込められた加藤真一さんの救出作戦に、笠さんとごかいメンバーが挑みます。82年春に解放された加藤さんは、長年の隔離生活で足が弱り、車いす生活が続きましたが、ごかいの仲間たちに囲まれて、以後は平穏に暮らしました。隔離室の窓に野良猫を呼び寄せ、メッセージを括り付けて外部に窮状を伝えた加藤さんの映画のような脱出劇は、「精神医療ダークサイド」(講談社現代新書)に詳しく書いていますのでお読みください。

様々な悩みを懐深く受け止めてくれる笠さんのもとには、母校のA高校の生徒たちも受診するようになりました。味酒心療内科はやがて、受験勉強や親のプレッシャーなどに苦しむ生徒たちのたまり場となっていきました。

「生徒たちがたくさんやってくるようになりました。診察時以外にもね。そしたら、A高校が味酒への出入り禁止令を出したのですよ。『あんな所に行ってはダメだ』と。親に言って連れ戻させたり、それでも味酒に来る子は停学処分にしたり。あまりに腹が立ったので、学校前で、ここでは言えないようなことを書いた抗議のビラ配りもしました。僕はADHDですから、多動性で突っ走りましたね」

「そんなことをやって来たから、僕は母校が大嫌いなんだと思っている人が多いのですが、本当は大好きなんですよ。子どもたちが苦しまなくて済むような、良い学校になって欲しいと願っています」

笠さんはこの頃から、過大なストレスでメンタルヘルス不調に悩む子どもたちの身の上に、更なる問題が降りかかりつつあることに、皮膚感覚で気付き始めていたのかもしれません。「子どもたちにも牙をむく精神医療の暴走」という深刻な問題に。しかし、問題の核心部分はまだ見えていませんでした。

「その頃の僕は、振り返ると恥ずかしいくらいものを知らなかったですね。2000年代に入るとインターネットの時代になり、患者さんたちの力になろうとセカンドオピニオンを始めました。やり始めたころは自信満々でしたけど、続けるうちに分かって来たのは、自分の持っている精神医学の知識は全然使い物にならないということでした」

当時はまだ、幻聴や妄想があるとすぐに統合失調症にしてしまう時代でした。「発達障害」という概念は、精神科医の主流派からは見向きもされていませんでした。

「僕も狭い概念で診療していたんです。でも当時は怖いもの知らずで、インターネットでセカンドオピニオン的なことを発信していると、家族を不適切な精神医療のせいで亡くした技術者の男性が誘ってくれて、2005年に『精神科セカンドオピニオン』というページをやりだしました。僕は、そこの掲示板でのやり取りなどを通して、みんなを救えると思っていました。しかし、恥ずかしながら逆でしたね。患者さんやご家族とのやり取りの中で、僕の方が多くを教えられた。そして、発達障害というものの存在に気づいていったんです」

様々な感覚の過敏性があり、強いストレスを受け続けると幻聴や妄想が一時的に表れることもある発達障害。「狭い概念の診療」では、そのような人たちに一律に「統合失調症」のレッテルを張り、「一生治らない病気」「薬を飲まないと大変なことになる」と決めつけて、終生に渡る薬物治療でコントロールしようとしてきました。しかしその中には、軽い発達障害的な特性(凸凹)が背景にある人が多く含まれていたのです。その人たちは、過大なストレスやトラウマの苦痛を取り除けば、症状が収まったはずなのです。

「発達障害を視野に入れた精神科セカンドオピニオンを始めると、神田橋條治さん(鹿児島のカリスマ精神科医。言動や治療法が独特なので専門家の評価は分かれるが、発達障害と精神症状との関係にいち早く注目)からアドバイスをいただけるようになりました。神田橋さんのもとで学ぶ若い精神科医が、神田橋さんのメッセージを伝えに味酒に来てくれたこともありました。半分は褒めてくれたけれど、もっと発達障害のことを広めろとか、もっと漢方を勉強しろとか、いろんなことを伝えてくれました」

凸凹の特性がベースにある人は、薬への過敏性もあることが多く、向精神薬の副作用が出やすくなります。ところが多くの精神科医たちは、副作用で強まった症状を「病状悪化」と解釈し、ますます薬を増やす破壊的な投薬を続けていました。そうした処方は子どもにも及び、よだれを垂らして動けなくなったり、便を垂れ流してオムツが外せなくなったり、といった悲惨な例が相次ぎました。こうした情報が、患者や家族からインターネットを介して、笠さんのもとに次々と入るようになりました。そして、狂った精神医療から患者を守るための戦いが始まりました。

「子どもの例でいうと、東京などの都市部が特に酷かったですね。東京都立梅ヶ丘病院で薬漬けにされた子どもたちが、次々と味酒にやって来ました。あの病院には当時も、『発達障害の専門家』を名乗る医師がいたはずですが、やることは薬漬けでした。入院中の子は外泊を取って、家族と一緒に飛行機に乗ってやって来ました。13、4歳の子どもが、オムツをして来るんですよ。本当に酷かった」

「あの時代の10代の子どもたちは、今は30代になって、医者になったり、心理士になったり、医療職についている人がたくさんいます。そういう人たちは、『統合失調症』にされていたのだけど、減薬や断薬がうまくいって、環境調整などもして、元気を取り戻しました。でも、5年、10年と過剰な薬を飲まされてしまった人の中には、薬を抜け切れなくて苦しむ人もいます。ここに来た子どもの多くは、飲んで1、2年だったから抜いて元気になったのですが。本当に辛いケースばかり見てきましたよ」

笠さんと患者、家族たちは、こうした深刻な状況や体験談をインターネットや本などで発信していきました。私が笠さん編集の本「精神科セカンドオピニオン」と出会い、読売新聞で大反響となる連載を展開したのも、この頃でした。そして精神科業界も、発達障害や統合失調症の過剰診断に目を向けざるを得なくなっていきました。

今では逆に、発達障害の過剰診断が問題になるほどです。わずか10数年で、精神科診療の中身はだいぶ変わったのです。では「良くなったのか」といえば、なかなかそうも言い切れないのですが。

メンタルヘルスの不調は、子どもの頃の家庭環境が原因のひとつになることがよくあります。それは、傍から見ると平和そうな家庭でも起こります。

「こういうことを言うと誤解されるかもしれませんが、発達障害の子どもの親って、発達障害のことが多いのですよ。だから親子でコミュニケーションをとるにも、全部み合っていないんです。お互いに誤認があるから、取り違えて、誤解してぶつかるんです。わざわざ、ぶつかりたいわけではないんです。それの積み重ねですよね。そこに親のアルコール依存症などが重なると、なおさらこじれるわけです。親譲りでADHDな僕は、親と決別しましたよ。一緒にいると殺されると思って」

笠さんは高校生の頃、記者にあこがれて新聞部に入り、早稲田大学の政経学部を受験しようとしました。ところが親や親戚にバレて、強制的に医学部を受験させられたそうです。なぜなら、俳優の笠智衆さんも親戚にあたる笠家は、江戸時代から続く医家で、笠さんは13代目になることを宿命づけられていたからです。メジャーな診療科ではない精神科を選んだ心理には、家への反発もあったのかもしれません。

「親子の話って凄まじいものがいっぱいありますよ。結局は親が姿をくらますしかないとか。住所を変えて身を隠すケースがいくつもあるんですよ。見つかったら半殺しに遭うので、僕が逃走を手助けするんです。親はもうヨレヨレなのにね。そんなになっても復讐したいんですね。落とし前がつかないんですよ。過剰なこだわりというやつが、そこにあるとね。僕のようにクジラグッズを集めるくらいならいいんですけど、人によってこだわる場所は違うから」

笠さんは、患者を守るためなら巨大な宗教団体にも立ち向かいます。

「ある大きな宗教団体と僕は、この街でかなりややこしいですよ。患者さんが騙されて、大きな仏壇を買わされるんですね。すると症状がこじれて幻聴が聞こえたりして、怖いんですよ。大きな仏壇が部屋にあるだけで、いろいろイメージしてしまうから。朝はちゃんと勤行するように言われて、守らなかったら怒られて、それもまた怖いんですよ。だから、売りつけられた仏壇を全部燃やして歩きました。当然、信者の会員がうちに押し寄せてきてね。本当に不倶戴天の敵ですよ。僕はどことも揉めてます」

笠さんは一時、持病の悪化で診療できない状態でしたが、見事に復活しました。しいのき心療内科で外来診療を行い、今年4月にはブログも再開しました。(※2024年9月追記 再び持病が悪化した現在は診療していません)

「1日40人から50人診ていて、現役ばりばりですよ。子どもの患者さんも多いです。相変わらず口は衰えていません。でも、恥を知りはじめましたね。前はちょっと自慢みたいなところもあって、本当に恥ずかしいんだけど、相当打ちのめされたんですよ。やっぱり未熟というかね」

「セカンドオピニオンをしていたら、色んなことが分かります。僕が診ている人が、よそで僕のことをどのように不満で、苦しんでいるかということも聞こえてくるわけですよ。そういう恐れは絶対持っていないとね。自信満々の時は危ういですね。自信がなくなった今の方が、安心しだしましたね。なんか、戸惑いがいつもあってオタオタする老人になったので」

クリニックが休みの日は、ずっとこだわってきた往診も続けています。

「往診に行くと患者さんことがよく分かりますから。僕の方から行かせてくれと言って、行く方が多かったですね。往診料は生涯一度も取ったことがないです。ボランティアみたいなものです」

「でも最近は脚が悪くなって、段差がある家はきつくなってきました。2階にあがってくださいと言われても、できないようになってきました。車の運転も、視力低下で厳しくなってきた。往診が好きで仕方なかったのに、そろそろ潮時かな」

仮に往診ができなくなっても、患者たちに学びながら熟成を重ねた笠さんの力は、これまで以上に求められています。

最後にひとつ、質問しました。なぜクジラが好きなのか。

「昔あった大洋ホエールズという球団が好きだったんですよ。優勝したこともありましたが、ほとんどBクラスで弱くてね。そういう弱いところが好きでしたね。そんなことからクジラグッズを買うようになって、クジラに興味を持ち始めたんです」

「僕は典型的な狭量男です。ストライクゾーンが狭いのです。なんでも白か黒か、正義か悪か。だから、清濁併せ呑む(何でも呑み込む)クジラの寛容さに憧れているのかもしれませんね」

笠クジラの波乱万丈の航海は続きます。

(2021年7月22日)

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